風邪ウイルスの駆逐哲学

風邪ウイルスの駆逐哲学

誕生日を挟んで、一週間ほど盛大に風邪を引いていた。

仕事は休まなかったが、出血大サービスのエンドレス鼻水に始まり、扁桃腺(へんとうせん)に住み着いた悪魔が奏でる咳のヒットメドレー、紅蓮眼(ぐれんまなこ)で見つめる未来に希望などは一筋たりとも見出すことができない底這いの体調に打ち震えた。

 

絶不調のため、近年誕生日に敢行している乳卵製品の一時解禁についても延期。

これについては、夜勤期間の明ける2月にでも改めて解禁しようと楽しみを残している状態だ。

ベジタリアンになってから重篤な風邪は引いていないなどと言っていたが、ここ数年では珍しく発熱の症状を伴う風邪であったため、菜食至上主義のような偏った前言を撤回する必要があるだろう。

 

余談であるが、私は頭が痛くても体温を測らないというポリシーを持っている。

頭が痛いのだから、日常の自分から相対的に判断して熱があるに決まっているのであって、それが37度であろうと38度であろうと現実の苦しみは変わらないのだ。

わざわざ体温計を使ってまで自分の不調を数学的に認識する暇があるのならば、一秒でも長く安静にしているべきだと思っている。

 

無論、病院などへも行っていない。

緊急医療の技術を必要とする場面以外で病院へ行くことは、医療ビジネスの養分であることの宣言であるに等しいと考えているからだ。

大前提として、人間(動物)には自然治癒力が備わっている。

例えば、発熱はウイルスを高温で殺傷する過程で現れる症状なのであり、本来は歓迎すべき出来事なのだ。

解熱剤は、言わばその頑張りを拒絶する無慈悲な薬物なのであり、それは、子供の宿題を親が代わりにやってしまうことと同等、短期的には満足できたとしても、長期的には体にとって良いことなど何一つとしてない。

よって、ひたすら回復だけに努めるための断食、もしくは林檎でも齧って(かじって)大人しく寝ていれば、風邪などすぐに治るというのが私の理論だ。

 

仕事を休めなかったので、理想的回復論である断食に至ることはできなかったが、事実、医師の手など借りずとも数日で無事に風邪の症状は改善し、また元の地獄の日々が始まったわけである。

風邪は治っても都合よく人生までは好転しない。

私は、基本的にこの残酷な世界、支配的社会、隷属的人類及び支配人種のあり様を魂の底から憎んでいるが、それは、人生の前半として個人的に設定してある一時的な膿出しの期間がこれまでの道程の大部分を支配しているからでもある。

要するに、理想に反して満たされていない自分に対する潜在的な不安が現実世界に顕在化した状態が常態化している現状に対して圧倒的な臨場感を感じているからこそ、人生に対するペシミズムが溢れているのだ。

具体的には億単位の資産形成ができていないことが先頭に挙げられるだろうか。

 

人間は、想像に対する実現可能性を秘めた生き物である。

巨大な妄想であるとしても、臨場感を理想側へと完全移行させることができたならば、自然な発想でそれを実現するための行動をとるようになるものだ。

よって、理想郷実現の第一歩は、そのユートピアに対する臨場感を最大限に高めることとなる。

つまり、私はこの世界に対する悲観的な認識を改める必要があるということなのだ。

 

知れば知るほど底が抜けていく世界。

とは言え、世界を変革させ得る潜在的創造性については、私とて所持していると確信している。

 

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著/臣咲貴王



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