闇深きベジタリアンの世界観

ベジタリアン 菜食主義

完全菜食のヴィーガンになってから3年が経過する。

肉(牛肉、豚肉、鶏肉等)を一切食さなくなってからは、既に7年と8ヶ月。

個人的に設定している解禁ルールがあり、魚、卵、乳製品については、未だ年に数回摂取する機会があるが、肉に関しては、2011年4月以降、一欠片たりとも食べていない。

菜食による可視的な健康被害がみられないことから、今後においても、ベジタリアン(ヴィーガン)、そして添加物フリーを基軸とした食事内容を継続していく意思を強く持っている私であるが、8年近く経った今となっては、もはやこの食生活に対する不自然さはすっかり滅却されており、肉食に対する意識的な衝動らしきものも湧いて来ていないことから、菜食ライフを維持するために何らかの努力を要するということもないだろう。

 

改めて考察するに、いわゆる一般大衆的な雑食生活を送っていた堕落時期と、ベジタリアンになってからのある種のストイシズムを比較すると、まるで前世と今世レベルの違いがあるといっていい。

今となっては信じ難いが、もはや過去世となる堕落全盛期においては、例えばファストフード店のハンバーガーやスーパーマーケットの惣菜、コンビニエンスストアの弁当を嬉々として貪っていた時期があったのだ。

そんな彼はもうとっくに制圧済みだが。

 

本人的には今や当たり前の菜食主義というプリンシプル(信念)であるが、今現在大多数の地球人達が雑食である現実から客観的に判断するに、ベジタリアン、特にヴィーガンとなることによって、我々は集団心理学上の孤立無援な地上生活を送ることとなる。

人間というものは、自分の理解の及ばないものに対して無意識的に拒絶反応を示す生き物だ。

よって、現文明における菜食主義は、世俗の体系から著しく乖離(かいり)することを意味する生き方であり、この孤立感をポジティブに捉えられる明確な自信と強い信念を持っていなければ、継続は難しいだろう。

島国特有の排他的ガラパゴス体質がデフォルト化している日本国においては特に。

 

私が菜食主義を継続する理由については、「ベジタリアンと反骨の原点」の記事で述べたが、人が後天的に菜食主義という食生活を継続し維持していくためには、一定以上の忍耐力と決意が必要となるだろう。

宗教上の理由等で生まれた時から先天的に菜食者である場合を除いて、私のように過去に肉食を行なっていた者がベジタリアンを志すためには、まず脳の普遍的な欲求に基づいて発動する食欲という名の暴君をコントロールし、菜食主義という新たな信念の支配下に置くことができるかどうかが鍵となる。

このためには、奴隷が王となるほどの革命的な意識改革が必要となるだろう。

 

菜食以前の意識状態は、肉食が常態化しているので、理解の外側にある菜食に対して排他的な偏見の支配力が強く及んでいる。

そんな古参の王から我々が権力を剥奪するには、肉食獣を諭すための論理的な裏付けとなる知識を脳にインプットすることが先決であり、つまり、そうすることによって暴君の潜在意識に対してベジタリアンになることによるメリットを深く刻みつけることが重要なのだ。

意識上の王を洗脳するのである。

その刷り込みの継続がいずれ習慣を形成し、やがてその習慣が大きな潮流となることによって、無意識的な菜食主義の継続を促すのだ。

戦いは長期化するかもしれない。

だが、このステップを怠ることは、潜在意識上に残存する獣にアラームを仕掛けることを意味する。

その結果、何らかのトリガーによって目覚めた肉食獣の反逆によって、我々は退化、つまり、雑食者への逆戻りの危険に晒されることとなるだろう。

 

ベジタリアンは孤独である。

「経営者は孤独」という言葉があるが、他者と違った視点を持ち、それを実行に移すということはある種孤独を選択するということだ。

先に、人間の集団心理がもたらす排他的反応について触れたが、現代において世界的にもマイノリティであるベジタリアンについても同じことが言える。

だが実際、この孤独感の原因は他者の排他的反応にではなく、自分自身にある。

自分自身が他者と違った道を選択し、その道筋を正当化することによって、マジョリティに対する批判の種が芽吹くのである。

菜食とは、肉食を拒否することであり、よって、潜在意識の中で肉を食べる者に対して否定的な視線を向けるということになる。

孤独になるのは至極当然だ。

しかしながら、このような事実に対して葛藤するような生半可な信念でしか生きられないのであれば、ベジタリアンに限らず他の何か特別な偉業を成し遂げることも難しく、我々は社会という名の監獄の中で死ぬまで模範納税囚としての人生を歩むだけとなってしまうだろう。

自由な選択には孤独と責任が伴うのである。

 

よく弱者の言う仲間意識、つまり、より大きなイデオロギーに自己を同一化させることによって、矮小な自分自身に対する安心を得ようとする行為の弊害として表出する排他的思想に対する失望感や、人間の飽くなき欲求同士の騙し合い、嫉妬、自己正当化、他者軽視から生じる論争に紛争。

人間社会は、もはやリターン不能な局面にありつつも、時間軸は我々が休息することを決して許さない。

このような局面において、例えば菜食主義を食物連鎖の支配ピラミッドからの脱却を目指すムーブメントとして捉えると、それを顕在意識上のこのような人間社会からの解脱の手段として機能させることも可能だ。

蝶の羽ばたきひとつですら世界に変化を起こし得るという「バタフライエフェクト」の理論に重ねると、そのような一人の人間のミクロな変化がやがてマクロな潮流を形成し得るという点で、マイノリティでありつつも一つの信念に対するプライドを持ち続けることには価値があるのではなかろうか。

少なくとも私は、菜食主義という生き方だけではなく、当ブランドの作品制作に関しても、そのような生き様の一環として取り組むことによって、今世における存在意義を見出そうとしている。

 

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著/臣咲貴王



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