「神聖なるプレイリスト」第八回。
今回は、MUCC(ムック)。
私が二十代に乗ってからその良さに触れたバンド。
ロックサウンドを基調とし、メタル色のギターリフが底這う曲から昭和歌謡のテイストが織り込まれた作品など、幅広くも独自の色に統一された音楽性、そして、剥き出しの表現で心を打つ作詞力が特徴。
本プレイリストは、同バンド初期の世界観である暗く陰鬱な歌詞で展開される曲を中心に構成してある。
資本主義を実質的な基盤として回るこの地球社会において、狡猾(こうかつ)な支配層の独占を免れたごく一部の富を奪い合い傷付き続ける圧倒的大多数の我々ホモ・サピエンスが、その人生に対する悲観的な思想を強く抱くことはごく自然な反応であり、また、それは私個人がブランド活動を続ける上での原動力でもある。
本プレイリストは、この世界に対するそういったペシミズムと憤りに深く共鳴するものとなっている。
欺瞞(ぎまん)に満ちた社会基準に順応しようと自分に嘘をつくことなどによる結果として、誰しもに訪れるであろう「死にたい時」に聴くのが最適ではなかろうか。
では、再生。
- 輝く世界(アルバム「鵬翼」(iTunesから入手)収録曲)
- 嘆きの鐘(アルバム「極彩」(iTunesから入手)収録曲)
- 死して塊(アルバム「是空」収録曲)
- 遺書(アルバム「朽木の灯」(iTunesから入手)収録曲)
- 賛美歌(アルバム「球体」収録曲)
- 幻燈讃歌(アルバム「朽木の灯」収録曲)
- 溺れる魚(アルバム「朽木の灯」収録曲)
- こもれび(アルバム「鵬翼」収録曲)
- 暁闇(アルバム「朽木の灯」収録曲)
- ハイデ(アルバム「脈拍」(iTunesから入手)収録曲)
一曲目、「輝く世界」。
静かな始まり。
“瑠璃色に輝く”美しい星に生まれながらも、そこにあるはずの美しさや幸福は、自分が認識している現実とは乖離(かいり)しており、”受け入れ”ることができない。
しかしながら、自虐的ともいえる静寂のメロから一転し感情的なサビに入ると、そんな”賢者の都合”によって”捻じ曲げられ”た”世界”であるとしても、”もがきながら“”生きてゆく”しかないという受容や怒りの交錯した力強さへと変化する。
二曲目、「嘆きの鐘」。
自己の無価値感を歌に乗せ、蠢く(うごめく)ように疾走する。
本プレイリストの中では最も活発な曲。
三曲目、「死して塊」。
“愛すべき塊”という矛盾したワードが、唯物論的かつ感情的な曲展開のせめぎ合いを象徴。
まるで”畜生”のような呆気ない”終わり”を迎えた”無数の死塊”を目に”生きた証”を問いつつ、生きることに対する無価値を強めていく。
四曲目、「遺書」。
土砂降りのギターイントロダクションから歌謡曲調メロディーへと繋がる曲だが、テーマに相関した統一感のある曲。
“終わりなき「苦痛」の洪水に”呑み込まれた自己イメージの定着により、”「死ぬ」こと”でしかそこから逃れることはできないという強烈な思い込みの中でひたすら苦悩する。
五曲目、「賛美歌」。
前曲「遺書」に安らかな癒しを与えるかのような、教会を彷彿させる神聖なアルペジオを基調として淡々と進行していく一曲。
六曲目、「幻燈讃歌」。
そして、そんな神々しさを一気に打ち消すかのような現実主義の嵐へと転換。
“現実”を正確に認識する手順を省いて(はぶいて)、安易に”夢を求め”てしまう”弱さ”がもたらす悲惨な結果に対して”途方に暮れる時間”などは、”型崩れの執着”を強化する”意義”のない”時間”でしかないと吐き捨てる。
七曲目、「溺れる魚」。
悲観的フォークソング。
前曲「幻燈讃歌」で”無力さを知り””疲れきってしまった”心に沁み渡る一曲。
“僕はいつか窒息するだろう 愛も夢も何もかも光も見えないから 呼吸するのも忘れて泳ぎ疲れて溺れる魚”の一節は、本プレイリスト全体における中核を担う。
Aメロが1オクターブ上がってサビになるクライマックスが聴きどころ。
八曲目、「こもれび」。
マイナーなギターアルペジオと駆け足のベースラインの印象的な導入から、閉塞的と見せかけて徐々に開放的なサウンドへ転調する不思議な曲。
“思い出”を美化し回想するシーンとして、ここにこの曲を配置。
九曲目、「暁闇」。
ダイナミックな陰鬱さを放ちつつも、ここまでの流れを締めくくる統率感を持つ曲。
十曲目、「ハイデ」。
前曲「暁闇」の”「明日、天気になれ」”からの自然な繋がりで、木漏れ日のようなイメージを持つ本曲をプレイリストのラストに持ってきた。
“笑顔で輝”き”涙で溺れる””こんな世界”に”花束を”添えて、安らかなエンディングを迎える。
以上、今回のプレイリストも再生終了。
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著/臣咲貴王